自宅に比べれば遥かに近くにいた「あの日」

10年前、私は通院の為に東京へ出向いていた。当時は小学6年生。3月であることもあって母親と一緒とはいえちょっとした卒業旅行気分だった。

病院で診察と会計を終えて浅草へ。蕎麦屋で少し遅めの昼食を撮ってから押上方面へ向かった。恐らくバスで行ったはずだ。水上バスに乗ろうかとも話をしたが乗らなかった。

大分形にはなっていたと言え、高さはまだ最高地点の634mに到達しておらず仮囲いらしきものもあったスカイツリー吾妻橋から眺めた。

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吾妻橋からみたスカイツリー(2019年11月撮影)。あの日も吾妻橋から工事中のスカイツリーを見た。

スカイツリーの近くまで行って見上げつつ散策。そのうちに来たバスへ飛び乗り宿泊地へ戻った。部屋に帰ってからは当時宿泊地でレンタルサービスが行われていたDSで桃太郎電鉄をプレイしていた。

 

 

最初は眩暈だと思った。でも外を見ると電柱が揺れている。すぐに机の下へ隠れた。揺れは大きくなり長く続いた。部屋に1人きりなのも相まって恐怖で動けなかった。

しばらくじっとしていると母親が部屋へ来て、非常階段で下の階へ降りた。テレビには多くの光景や情報が流れた。名取川を遡上していく津波の映像をリアルタイムで見た。

その間もずっと周期の長い揺れが続くような感覚だった。揺れの向きに部屋を歩き少しでも揺れている間隔を抑えようとした。

食事は喉を通らなかった。ひたすらに帰りたいと思った。東京というところは地元から遠く離れているといえ、通院で馴染みもあり身近に感じるところだったがそれでも早く帰りたかった。

 

翌朝。もともと帰宅日だったが予定を少し変えて最寄り駅ではなく1駅歩いて別の駅から電車に乗ることにした。駅の発車標には本来表示されている筈の発車時刻が無かった。電車がいつ来るかわからないという感覚は初めてだった。ようやく来た電車は朝ラッシュ並みか、それより多くて寿司詰めのような満員だった。それでも乗らなければ次がいつ来るかわからない為乗り込んだ。

新幹線で4時間半掛けて故郷に着いたのは16時頃だった。所要時間的には普段とさして変わらないが着いた時母親はこう言った

「やっと揺れない土地へ来た。」

 

 

10年後、私は今日を故郷で迎えた。当時は休みの身で巻き込まれる形だったが、今日は忙しない仕事の合間に発災時刻に黙祷があった。ただそれだけだった。

考えてみれば「それだけ」なのは当たり前なのだ。震源域から近く広い範囲で震度5弱以上の揺れに見舞われた関東と、そこから800~900km近く離れ震度1を観測したかしなかったか、その時に体感として揺れたかもわからないこちらでは違って当たり前なのだ。

きっとその日も多くの人が異常事態に気づいたのは帰宅の為運転していた車内で聞いたカーラジオか家について電源をつけたテレビなのだろう。そして、あの日通院の為に上京していなければ間違いなく私は後者で気づいていた筈なのだ。いつものようにアニメや好きな番組を見ようとテレビの電源を入れて初めて。

 

どこかで誰かの身になにが起ころうと、当事者と認識できるレベルで近くにいなければそれが重大なことでもすぐにはわからないもので、ずっと時間は流れていくし日常も続いていくのだから。

 

沿岸の高台に避難した人々や家路へ人込みの中歩いていた人々、救助を待っていた人々に比べれば遥かに恵まれていた。暖かな室内で情報に触れ食事を摂ることだってできていたのだから。

暖かい部屋にいることができテレビの情報を見て食事を摂ることができた、それでも自宅から遥か遠くの地で、自宅と比べれば遥かにその光景が繰り広げられていた地の近くに居たのは怖かった。怪我も無く拠点に帰れなかった訳でもなく、そこに居れたなら大したことは無かったと言われてしまえばそれまでだが、それでもひたすら怖かった。

 

 

東日本大震災10年を踏まえて、少し思ったことを文章に起こしてみました。上手く文章に落とし込めないのですがそれでも。自宅から見れば遠く離れた地であることは確かですが、身近に感じていたより近くの地であの日を過ごしていて、リアルタイムで津波が流れ込むさまや帰宅困難者が列をなす主要駅の空撮映像を忘れることは生涯無いと言えるほど強烈な記憶として刻まれています。

 

この時以来、宿泊を伴う遠出の際は余分に常備薬を持参する等の対策を行っていますが、改めてその備えや自宅の備えを確認したり。また備えるだけでなく、日頃から身近な土地も離れた土地での出来事も関心を持って接することができればなと思うところです。